ナレッジトランスファーと学習の種類
属人的に溜まっているナレッジなどのトランスファー(ナレッジトランスファー)を概念レベルでやろうとしている会社は結構あるが、
* 個人学習
* 組織学習
の2つがごっちゃになっていることって多いなと感じる。
上記2つはMECEではなく被りが多分にあるが、個人から組織へのナレッジトランスファーを意識的にしない限り、組織学習ではなく個人学習がなされるだけで、組織へも移転は達成されていない実情を多く見ている。
Aさんという特定のナレッジ保有者から、ナレッジを学習する個人であるBさんに移転されても、Bさんと一緒に組織を構成するCさんとDさんとEさんも一緒に学習して手を動かして実感を得ない限り、学習主体は組織ではなく個人になってしまう。
これをやっても、Aさんが抜けたあとにBさんが抜けたら、またナレッジトランスファーが課題になる。組織学習しないことによる課題が再生産される。
またそういった組織は、学習できなかったこと自体を学習できるメタ認知もできていないことが多いので、
誠実の輪を広げたい
自社の正社員かそうでないかすごく隔てる会社って、いざというときにクリティカルだけど納得感のあるコミュニケーションが取れない。
自社の正社員のするほうが、契約交渉を頻繁にしなければいけないほどにフリーランスと比べるとコミュニケーションコストは下がることはあるけど、それはコミュニケーション能力を上げることにはほとんど寄与していない、もしくは現状維持か下がっている可能性もあるので、自社の正社員にも説明ができない。
私がいたスタートアップも関与させていただいたスタートアップも、額面給与とストックオプションとを組み合わせることに頭を使うべきというのが私のスタンスですが、ブラックボックス的説明しかせずに正社員雇用して、ストックオプションは後出しジャンケン的に付与しないと決める会社も想像以上に会ってきたし見聞きもするけど、そういう不誠実な企業は、対外発信はキレイゴトで中のことを正確に把握していない、もしくは把握することを諦めている経営者が発信していることがほとんどで、まじでカオス。
いずれ、定常的な組織変容ができないので、組織崩壊するか、課題意識を持った人が組織「変格活用」
佰食屋と、コロナ禍での飲食業の破綻
コロナ禍で最も破綻件数が多かったのは飲食業だった模様。その数は2023年4月までで943件。
その他、建設業やアパレルが件数としては続き、1位の飲食業に関連する飲食料品卸売業、そして海外からのインバウンドと国内ともに影響を受けたホテル/旅館の宿泊業が上位を占めている。
都道府県別、業種別、負債額別、(破綻の)形態別、従業員数別で統計データがまとまっているのでご関心あればご一読を。
コロナ破たん 4月は過去2番目の件数 累計6,233件に | TSRデータインサイト | 東京商工リサーチ4月は「新型コロナ」
ミッション・ビジョン・バリューと人間性
昔から、ミッション・ビジョン・バリューみたいなものはエンティティとして用いられていた概念なのか。それとも、近年になって用いられることがオーソドックスになってきた概念なのか。
もし近年になって用いられれているものなからば、昔は違った。
昔は、経済成長と個人の環境改善とが比例関係にあってある程度わかりやすかったとする。
そのときが、実は一番経済合理性が用いられたときなのではないか。
つまり、経済合理的なをすることの反映としての個人の環境改善までの道筋が見えやすいとき、経済合理的な行動に対するインセンティブが、経済合理的であることそのものになる。
一方、ミッション・ビジョン・バリューのような定性的な概念を用いるということは、
M&A仲介か、片手FAか
すべての前提や前提整理や議論の前に、結論から言おう。
M&Aの当事者は、仲介も片手FAも、どちらも選べる。
そして、どちらを選ぶのも正義である。
以上だ。
何のことを言っているかというと、会社や事業の譲渡・譲受(=M&A)の世界において、当事者である売り手および買い手は、仲介をして当事者の両方から手数料を受領する形態のサービスを利用することもできるし、売り手もしくは買い手の片側に対して助言やサポートをする形態のサービスを利用することもできる。
全面的に、一部を真似する
憧れている唯一の人とか、ベンチマークにしているたった1人の人とか、自分にはそういった人はいない。
これまで参考にしてきたたくさんの人たちのうち、ほんの一部を挙げるだけでも下記のような人がいる。(順不同。何において、という点についてはこれから述べることを読んでいただければわかるように、意志を持って記載しない。)
* 本多静六
* 濱口秀司
* 御田寺圭
* 島田紳助
* 太田光
* 関根勤
* ハンナ・アーレント
* J.P.サルトル
動画と本の違い
映像はたしかに面白い。自分もYoutubeのドキュメンタリーとかは結構見るし、視聴時間もトップクラスだと思う。
一方、本も読む。
そこで、動画と本の差は何かと考えた。
なんなんだろうか。
自分としての答えは、想像する景色の違い、である。
具体的には、動画だと、例えば中田敦彦のYoutube大学はみんなが同じものを同じタイミングで見ることになり、人ごとに見ているものの差分が発生しづらい。
一方読書は、読むペースも違えば、文字への着眼ポイントも違えば、文字から想像する自分の頭の中のイメージも違う。この想像する景色が違うというのはかなり面白い。
入門レベルからの脱却と捨象
いろんな分野の入門書を読むのは面白いし、最近読んだ本だと『現代思想入門』は非常に面白かった。
世の中の抽象概念の1つの結晶として展開されている「哲学」についても、「これまで哲学に興味が無かった人にもわかりやすく」云々という本がたくさん出ている。
哲学の入り口が広がり、裾野が広がり、概念展開が進むことについては私は肯定的である。
一方、一定以上の抽象度での思考ができない人にまで、これまで人類が蓄積してきたものの多くを理解させようとする試みが合理的なのか日については甚だ疑問だ。
一定以上の抽象化思考、概念思考ができない人は、諦めるというのも、必要なことだと個人的にはかんがえている。
なぜなら、
供給側のことばっかりのクソ発信はクソ喰らえ
過去に3社に属したが、頑張ってうまくいき始めたり、まだ上手く行っていないけど頑張っていたりして、手段として対外的に広報・発信するコンテンツとして、「こんな優秀な人がいます!」とか「こんな優秀な人がジョインしました!」とか「こんな社内体制です!」とかそういうことを発信する場面をたくさん見てきた。スタートアップでも大企業でも。
もちろん、会社の組織システムや誰と働くかは、金銭的・非金銭的な報酬や福利厚生として機能する部分はあるが、めちゃくちゃ思うのは、誰にタイトルが付いたとか、誰が昇進したとか、誰が採用できたとか、
理由なし、のススメ
私は歩く🚶のが好きである。週に100km歩いているくらい。
散歩といえばランディフ、ランディフといえば散歩、が完全に定着しているかと思う。(?)
距離の長さが好きの大きさと比例するとは思わないし、とある知り合いは犬の散歩を朝と夕方にすることで歩いて合計6kmくらい、という感じの程よい歩きライフを実践していて楽しそうにしている。
週に100km歩いていてそれを他の方に伝えてみると、大体の場合、
* 「歩いている間は何か聞いているんですか?」
* 「なんで歩いているんですか?」
というご質問をいただくことが多い。
人間の性として、訊かれたら「それっぽく」答えたくなる、という点があると思う。
私の場合は上記のようなことをご質問いただいたら、