「ハードシングス」について
ハードシングスを美談っぽく語る風潮が強く、特に承認欲求高めの創業者・代表がいる会社だと「そこからここまで来たぜ!」という発信がされるケースが圧倒的に多い。
ハードシングスは避けられないものかもしれないし、今回のコロナみたいに外部要因でいつくるか分からなかったものが来た、ということもあるかもしれない。
でも、組織崩壊系のハードシングス含めて、概ね、「経営が下手」が故にハードシングスに陥っていることもあることは見逃してはいけないし、全部一括りにハードシングスとかって言わないほうがいいしもしくくっていたら大雑把すぎる表現である。
組織崩壊してから「ここまで来たぜ!」って主張・発信しているデザイン系の上場企業が日本にあるけど、その組織崩壊を引き起こしても創業者・代表が変わらずに代表を努め続けているという、
成田悠輔 × YAMAP 春山慶彦の動画
この前編・後編の2つの動画について何度もコメントや考察を書こうと思ったのだが、なかなかまとめることができていない。
正直、今回はこの動画を見ていただくこと自体が最も効果的な伝達となるのでは、という一部の逃げの論理を自分に対して言い聞かせながら、乱暴に、動画2つを下記に記載することで記事投稿とする。
是非是非見てほしい。
人間が自分たちのコンフォートゾーンを作り出し、その切り出した中に自分たちを置き続けることで、自分たちが盤石であるようなシステムを持っていたり、盤石な身体を持っているような錯覚を起こしている可能性がある。そういったこと、自然と触れ合って学べる確率が高いことにもっと触れる表面積を持ってもいいと個人的に思ってきたし、それを明確に言語化はできていなかったが、この2つの動画でそういったないようのことを豊かな表現で2人が語っている。
※合う人と合わない人がわかれるかもしれないが、『半脆弱性』というニコラス・
ストーリー的意味づけからの脱却
人間がストーリーに動かされて意味づけするのは性としていいけど、意味づけしすぎ、という観点も持ってもいいと思う。自分は体系化マニアだが、言い換えると体系化とは意味づけマニアだとも言える。わざわざ全体を捉えて、単体だと本来は大して意味がないものにその中での位置づけをして意味を持たせようとしている自分がいる。
過去の色々な出来事が、創発的・偶然的にいまのある構造を形作っているが、自分のことや自分にまつわること、自分が見ていること、自分が見ていると思っていること、自分が関わっていることについて、自分がわかっていないと思いたくない。
そう思ってしまうと、自分の軸足が無いような、拠り所が無いような、そういった感覚と直面しなければいけなくなる。
それに直面するのが怖いので、
信じる力と居場所
信じる、には、エイヤの要素が拭えない。
ただそれだとわかりにくくて掴みにくくて、足場が無いような、拠り所が無いような不安に苛まれる。だから代替として、数値化したり条件付けしたりしている。それによって、信じることが自分に基づいている気がする。自分が直接に1次情報として信じている気がする。
数値化や条件付けによって、信じる基準自体は明確になるが、その基準だけに頼っても信じる能力は上がるわけではない。むしろ、信じる能力を意図的に行使しないことになれると、その力を失って忘れていってしまう確率が高い。
それでもなお、自由から逃走することを選んでいる人が圧倒的に多い。
「まず自分から信じてみる」
学歴とシグナリング
「学歴じゃなくて、実力、今の能力をもとに自分は活動している」とか、「学歴なんて役に立たない」とか、そういった表現・発信をする人がこの5年くらいだろうか、すごく増えてきているように感じる。
感情的には、これは理解できるというか、共感するところがある。
会社の経営に対してシュレーディンガー方程式はほとんどの場合は使えない場面が多いだろうし、使えるほどに訓練していないこともあるでしょうし、三角関数は経理の実務に使えないことが多いだろう。
勉強、特に学生時代の勉強内容といまの実務がリンクしていないことは多いし、日本においては、専門学校や修士~博士といった、
自分の身は自分だけで守る?
自分の身は自分で守る、というのは、自分の身は自分だけで守る、ということではなく、自分の身は自分でも守る、ということなのではないか。
パートナーの協力してもらうことも、親や兄弟に協力してもらうことも、医者や看護師や薬剤師に協力してもらうこともある。
ともかく、自分だけで守れると思っているうちはまだ自分に余裕がある。
私は何度も入院して、また直近(2023年8月)で入院して改めて思うのは、どうしようもないときもあるということで、そのときはいろんな人に協力してもらわざるを得ない。
そんなときに、自分の身を自分だけでも守れると思っているなんて勘違いだと気がつく。正直、
税金の有無による、企業の人材選択の社会的担保
時給が1万円のフリーランスのマーケッターであるAとBとがいるとする。
ある企業がこの2人と契約しているが、とある月間や年間に、Aには300時間の労働に対して300万円、Bには0時間の労働に対して0円を配分するとする。
このとき、個々人の所得税の合計という観点では、国全体ではその所得税を設けている場合とそうでない場合とで再分配に影響がある。
所得税を設けていない場合、Aに300万円でBに0万円を分配しても、Aに150万円でBに150万円を分配しても、その影響は再分配という観点では無差別となる。すなわち、所得の大小の差はあっても、国全体でのその期間の所得全体は300万円で、一次的な分配先であるAとBにそれぞれ配らて終了となる。
一方、所得税がある場合は、300万円:0円と150万円:
人生のインターバル期間について
定期的にでも不定期にでも、社会からいなくなってしまう感情は発生していいし、インターバル期間とかは設けていい。もし迷ってるなら、助けになるか分からないけど私が肯定する。
「社会復帰」という言葉があり、身体的だったり精神的だったりでブランク期間があったり、日本だと平均して22~23歳以降に会社など組織で働いていない状態から組織で働き直すことを指しているが、社会も復帰もどちらも概念であり幻想だ。
その社会が指しているのは、マジョリティとしての労働の定常性であり、人間は一定の年齢の期間は組織で働くものだ、という価値観だ。
私は、日本での標準というか普通にというか、幼稚園から大学まで年齢の通りにストレートで学校という小社会にいた。
ただ、一般に言ういわゆる社会人になっても、
メタ認知がもてはやされている
ティール組織しかり、メタ認知がもてはやされていて、人間としての成熟した姿の条件としてメタ認知を当然のように語ったり、自分も一部それに加担している意識があるが、本当にそうなのかは時々検討してもいいと思っている。
メタ認知ができる → 優れている人間
みたいな構図は社会通念の1つであって、ハッキリいえばでっちあげの幻想かもしれない。優れている人が自分の優れている尺度を他の人に押し付けているだけの可能性もある。
ディシプリンとして、他の人がアドホックに監視しなくても自分で自分を監視して律することができると、自分として助かったり生きやすく感じられる部分も確かにあるだろう。ただ一方、それまでアドホックな監視をしていた側、王様などの権力側が、自分たちがわざわざ出向いて監視しなくても統治できるように編み出した、規律という名のもとの権力側の監視のスケーラビリティの確保のための人類の発明なだけかもしれないのである。直接見に行かなくとも、自分で自分を律するので、
成功の秩序化の限定性
目的が狭くコントロール可能な部分が大きい場合、『失敗の科学』のなかで記述されているよう航空業界のように秩序を創るのが合理的。他方、目的が可変でシャープとも限らず、目的に対して方法論も無数に考えられるような状況では秩序化は概念的・虚像的なキレイゴトでにしか過ぎないかもしれない。
成功の方程式とか、幸福の方程式とか、いろんな本が出回って「良いとされる結果や在り方の秩序化」を主張していることと、私含めて人々がそれに対してついそそられてしまう部分があるという意味で、需要と供給は成立している。ただし、それが本質的なのかはまた別に話と言える。
成功方法の秩序化は、それ以外の成功の定義を弾き飛ばす論理を含んでおり(=方程式からの逸脱を論理的に許容できない)、また成功に再現性がある、