メタ認知がもてはやされている
ティール組織しかり、メタ認知がもてはやされていて、人間としての成熟した姿の条件としてメタ認知を当然のように語ったり、自分も一部それに加担している意識があるが、本当にそうなのかは時々検討してもいいと思っている。
メタ認知ができる → 優れている人間
みたいな構図は社会通念の1つであって、ハッキリいえばでっちあげの幻想かもしれない。優れている人が自分の優れている尺度を他の人に押し付けているだけの可能性もある。
ディシプリンとして、他の人がアドホックに監視しなくても自分で自分を監視して律することができると、自分として助かったり生きやすく感じられる部分も確かにあるだろう。ただ一方、それまでアドホックな監視をしていた側、王様などの権力側が、自分たちがわざわざ出向いて監視しなくても統治できるように編み出した、規律という名のもとの権力側の監視のスケーラビリティの確保のための人類の発明なだけかもしれないのである。直接見に行かなくとも、自分で自分を律するので、その労力がコスト的に削減できるよねと。
人間の生み出した知恵であり、巧妙な方法論だなとは思う。けれども、歴史的背景からして、メタ認知や自己規律を手放しで喜ぶのは、権力構造を理解していない、もしくは権力構造から自由になる視点を持てていないという意味で、メタ認知も自己規律もできていないのではないだろうか。