ミッション・ビジョン・バリューと人間性
昔から、ミッション・ビジョン・バリューみたいなものはエンティティとして用いられていた概念なのか。それとも、近年になって用いられることがオーソドックスになってきた概念なのか。
もし近年になって用いられれているものなからば、昔は違った。
昔は、経済成長と個人の環境改善とが比例関係にあってある程度わかりやすかったとする。
そのときが、実は一番経済合理性が用いられたときなのではないか。
つまり、経済合理的なをすることの反映としての個人の環境改善までの道筋が見えやすいとき、経済合理的な行動に対するインセンティブが、経済合理的であることそのものになる。
一方、ミッション・ビジョン・バリューのような定性的な概念を用いるということは、人間は自然と、経済合理的ではないもの、経済合理的ではなくてもストーリーだったり共感だったりで惹き付けられるものへの行動のインセンティブを持つようになったのではないか。
つまり、マクロ全体なりミクロ主体であっても、経済合理的な意思決定基準や判断基準、価値基準が支配的となっても、
リーンスタートアップという概念、マネジメントの方法論があるが、あれは、失敗時間や失敗量を最小化することを実現するための科学/ハックである。つまり、成功までの最短距離のために、失敗時間や失敗量を最小限に抑え、最終的には「成功量 ÷ 失敗量」といった計算式で図られるROI・コスパを最大化することを効率的に実現するための方法論として編み出されているものと捉えることができる。
この、ミッション・ビジョン・バリューという経済合理性と比例するとは限らないものと、リーンスタートアップのような経済合理性を追求する方法論とが、本当に理論レベルでも概念レベルでも実務レベルでも現場感覚としても噛み合っているのか、噛み合うように組織デザインをしているのか、というのは振り返って考えてもいいテーマなように思う。
日本ではファミリービジネスというものの裾野が広く、100年以上続いている企業が世界で一番多いという統計がある。
このファミリービジネスにおいては、「経済合理性があるから」という価値基準よりも、閉塞的なのか開放的なのかは様々なグラデーションがあるだろうが、「家族だから」という価値基準が一定程度は組み入れられている、いや、そこに存在しているだけで組み入れられていると言うほどの設計思想は持っていないかもしれないが、そこに存在している。
「家族だから何なの?」という脊髄反射をする感覚は私にもあるが、経済合理的な価値基準以外のものを持っているという意味では、ミッション・ビジョン・バリューという汎用性があると思われているものも、家族という尺度であっても、同様のものとして概念的に捉えられる。
リスキリングとかアンラーンといった言葉が流行っているというか、言葉自体も独り歩きしながら広まっているが、「経済合理的な観点で、振り落とされないようにする」という価値尺度やそれから発生する不安をベースに、「経済合理的であり続ける主体であるには、スキルや知識を付け替えなければいけない。そうしないと選ばれない。」という感覚が広く植え付けられているように思う。
こんなに貧しいことがあるだろうか。
好奇心ベースで、違うことを学んだり、学問やアートに触れて頭を殴られるようなショックを受けて価値観を作り替えたり、ということをやっているなら健全なように思うが、目的性を持って学ぶ、学ばなければいけない、という感覚が支配的な状況は、私には健全なように思えない。
健全、というのは、そんなに人間は目的性を持って行動する動物であるとは私は考えていないので、本来は目的性を持たずにフラフラと漂っていたいだけの人間、そういった瞬間が少なくとも全く無いわけではない私を含めた人間にとって、目的性に支配されている、経済合理的であるという目的性に支配されている状態は、人間性に反している部分があるように思う。